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2018年9月の投稿

2018年9月29日 (土)

再開「尽きない泉」32号

聖書

すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬるにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬることも益です。ピリピ1章20~21節。

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9月28日上諏訪駅裏の芝生に植えられていた「かりん」の実です。これから熟し黄色になります。食べるのではなく蜂蜜につけたりして、のどにいいようです。念のため・・。


皆それぞれいのちを与えられ、それぞれの人生がはじまり、そして、いつの日にか神の定めの時が来て、人生を終わるのです。ですから、一日一日、良い時間を過ごせるようにお祈りしながら生活するのです。

人は、そのいのちと人生の尊さを忘れず、いのちを感謝し、いのちをより良く活用して生きるために、少しでも長生きして活躍できることを願って祈り、自分も、健康管理を怠らず心がけたいのです。

 人生の目的は、イエス・キリストがあがめられように、生き、そして死ぬのです。自分の生死は、神の手の中に在るのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても主イエス様のすばらしさを世の中に、広めるために生きているのです。

このように、生きている意味をしっかり分かって生きていることは、本当に、しあわせなのです。やみの中や、霧の中を行くように、先が分からないのではなく、先を知って生きることは、しあわせなのです。神さまを信じ、主イエス様を信じ、絶えずお祈りして、生きていると、不思議と思えるような神さまの助けが与えられ、生きて行くための必要な物を神さまは備え、与えて下さるのです。

今日も、お一人お一人のお幸せを心お祈りしています。必ず、その祈りが答えられることを信じて熱い心で祈っています。

上諏訪駅です。

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2018年9月28日 (金)

再開32号

聖書
あなたの口を大きくあけよ。わたしがそれを満たそう。
詩篇81篇10節。

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         ガーベラ

ヤベツは、私を大いに祝福し、私の地境を広げてください。と祈りました。
 足許をしっかり固めながら、未来へのイメージは、遠く大きく豊かで広い夢を描いて、心豊かに生きて行くべきであります。現状は、確かに、厳しく、つらいとしても、私たちには、主イエスがついていてくださるのですから、夢は、大きく栄光に輝くものであるべきなのです。

口を大きくあける・・期待は大きくあるべきであり、祈りは、その実現を信じた豊かなものであるべきなのです。

牧草地は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をおおいとしています。
詩篇65篇

この詩篇の作詩者は、このようは、明るく豊かな未来を心に思い描いて、上を見上げて、元気で生活していた二のです。

あなたの目は麗しい王を見、遠く広がった国を見る。
イザヤ33章17節。

患難の中でも、下を向いて暗い心にならず、患難の意味をよく理解し、明るく受け止めたです。そのような強さが、祈りの答えとして私にも、あなたにも与えられるのです。

厳しい現実を逃げずに、真正面から受け止め喜ぶ力を神は与えて下さるのです。患難は、人生の真理、奥義を身につける最高の学びの場である事を思うとき、患難は、喜べばこそ、悲しむことはないのです。

 患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し・・
ロマ5章3節。


 今日もお一人お一人の上に神さまの祝福が豊かでありますようにお祈りしています。

2018年9月26日 (水)

「尽きない泉」再開30号

聖書 キリストは、私たちのために、ご自分の命をお捨てになりました。それによって私たちに愛が分ったのです。ヨハネの手紙3章16節。

 主イエス様は、ご自分から、私たちのために、いのちをお捨てになったのです。

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         コスモス 秋桜
 

これには、大事な意味が込められているのですが、これは、神さまからの対話の呼びかけでもあって、神さまは、私たち人間と単なる会話ではなく、対話を望んでおられるのです。この呼びかけを私たちが受け止めてこちらからも応答えることによって、心の通じ合った対話が成り立つのです。神さまは、単なるお話、会話ではなく、私たちと気持ちのこもった対話を望んでおられるのです。

ああ言えば、こう言い。こう言えば、ああ言うのは、ぶつかり合いであり、これが戦争の原因なのです。

 主イエスを知ったとき、心に平安が訪れ、和らぎ、愛に満たされ、お互いに心を開いて受け入れ、認め合いお話をする、本当の交流、和やかなコミュニケーションが生まれのです。その交流から生きる喜び、生きる力が生まれるのです。「尽きない泉」は、いのち、生きる力、安らぎ、喜びが湧く泉であるとともに、「尽きない泉」の文章を通して多くの人と対話、交流を願っているのです。

 お一人お一人の上に今日も、これからも豊かな祝福な日々であるようにお祈りしています。

2018年9月24日 (月)

「尽きない泉」再開29号

聖書 あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは野草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこからとられたのだから。あなたはちりだからちりに帰らなければならない。創世記3章17~19節。

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                    キキョウ 桔梗

 

顔に汗を流して糧を得、これは、精神的、肉体的に働くことであり、今も生きている言葉であり、これは神さまの命令です。

私たちは、それぞれ自分の考え、意志が与えられて、一人の人間として働き生きるように神さまにより造られたのです。

私たちは、聖書に記された神さまの言葉を信じて行動するのですが、聖書の言葉を信じ、その言葉をよく考え、感謝と喜びをもって楽しく生き働くべきなのです。

信じ、よく考え、感謝し明るく働き、結果を委ね安心して生きて行くのです。

テサロニケⅡ3章には、「働きたくない者は食べるな。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」とあります。勿論、病気とか、体が不自由な人とかは別です。

神さまにお祈りすることも仕事であり、世の中の何かの役に立っていることなのです。

 人にとって自分が何かの役に立っていると認められることは、うれしいものであり、元気になるのです。ですから、お互い、人のことをほめ合うことは非常に大事なことであり、ほめられたら素直に喜び、お礼を言うべきです。人には必ず良いところがあるのです。欠点の裏側は長所です。

創造する喜び・・・働く、労働することは、それは物を造り出し、創造することなのです。人は、物を造り上げ達成した時の喜びがあるから、苦労を忘れ、人は、新しいことに次々と挑戦するのです。創造主に創造された私たち人間が、創造の喜びを活用して、文明文化を造り上げてきたのです。物を造り、造り上げ喜ぶことはとても大事なことなのです。

勿論、神さまの恵みと愛に支えらえてのことは忘れてはならないことです。

今日も、お一人お一人の生活と仕事が祝福され、お幸せであるように祈ります。

2018年9月21日 (金)

再開「尽きない泉」28号[

日付はダブっていますが、明日の分です。

聖書
キリストイエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。新約聖書ピリピ3章14節

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 徐々に体力はついてきています。お祈り、励ましを感謝します。
パソコンのカメラですので、不鮮明ですがいつもいる室内です。 

一心に・・

集中力は、厳しい現実に勝って、人生を生き抜くためにとても大事です。気を散らさず、物事に一心になることによって、物事はやり遂げられるのです。持てる力は、集中すると出て来るのです。

神さまへの心からささげる祈りの姿勢として、「祈りは必ず聞かれると信じる、ひざまづいて祈る、涙を流して祈る、血の汗を流して祈る、手を上げて祈る、忍耐の限りを尽くし祈る」その他、「一心に走る、一心に見つめる」「心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし・・」「力の限り見張って」などなど、集中力を言いあらわすことがまだまだ聖書には書かれているのです。

これらの集中力は、神さまへの忍耐強い祈りを心掛け習慣にすることです。

祈りは、祈りそのものが大きな力を発揮するのです。一心に祈ることを続けていると、自然に忍耐強くなるのです。同じく聖書に、「絶えず祈りなさい。」とあります。上よりの力、御霊の御力、祈る力を与えられるお祈りして待ち望んでいると力が湧いてくるのです。

お一人お一人の人生が幸せであるように心からお祈りしています。

「尽きない泉」再開27号

聖書
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。「これは「わが神、わが神、」どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。マタイ27章6節。

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          タンポポ
 

十字架上の主イエスさまの声は、私たち人間たちがしばしば抱く心の叫びなのです。神さまは、私たちを見放しておられるのではないのです。目に見える外側だけで判断してはならないのです。神さまは、どんな時にも、どんなことがあっても、信じる私たちを、決して、見捨てられる方ではないし、私たちの自由意思を与えて行動をゆるされた神さまは、私たちがどう生きるかを見守っておられるのです。私たちは、自由に伴う責任を自覚して、多く蒔く者は、多く刈り取るという主の御言葉を心に留め行動すべきなのです。神さまは、それを待っておられるのです。神の栄光を現わすための人生を送るため備えられた自分の人生を、厳しくあっても訓練と思って感謝を忘れず生きて行きないのです。

一般民衆を上から抑え込み、自由を奪った、歴史に登場したいわゆる独裁者の末路は、孤独そのもので、その最後は、栄光の過去とは正反対のみじめで、さびしかったに違いないのです。

しかし、神さまは、私たち人間を抑え込む方では全くないのです。信じない人を忍耐強く見守っておらえるのです。主イエス様、信じる自由も、信じない自由を、人間に与えておられるのです。へブル13章5節にあるように、主ご自身がこう言われているのです。「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」ですから、私たちは、その自由に伴う責任をしっかり自覚し、行動すべきです。祝福の人生は、ついて来るのです。神さまが、いつも、いっしょにいてくださる・・それ以上ない尊いことであり、しあわせなことなのです。

独裁者たちに比べ、自らを与え続け、いのちまでも与えた主イエス様の名は、今に至るまで残り広まり続けているのです。それも、変わりなく続き、さらに、信じる者には、尽きない希望、愛の永遠のいのちを与えて下さったのです。そして、ここに、「尽きない泉」が存在しているのです。この「尽きない泉」が主イエスの永遠のいのちをさらに多くの人々に伝わることを強く、強く願いお祈りしています。

この主イエスの「尽きない泉」により神の祝福を受け、末永く幸せになりますように、お一人お一人を覚えてお祈りを日々続けています。心を込め祝福を祈りつつ。

これが、十字架上のイエスの言葉に対しての答えなのです。そして、私たちに語り掛けておられるのです。神さまは、愛と恵みに豊かなお方です。アーメン

 

2018年9月19日 (水)

「尽きない泉」再開26号

そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。詩篇126篇1~3節。

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          向日葵 ヒマワリ

主イエスの福音は、平和の福音であると共に、喜びの福音なのです。人の心に喜びを与える福音であり、たとえば、普通は喜べないような状況でも、主イエスにつながっている時、心の底から湧いてくる喜びが心を明るくするのです。それは、それは、主イエス様が言われました信じる心の底から泉のごとく湧いてくるいのちの泉、尽きない泉から湧くいのちが人の心を元気にし、明るい喜びの心にするのです。喜び、笑いは、人の心身を健康にするのです

陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。箴言17章22節 新改訳

 喜びや笑いは、周囲を明るくし、人の交流を和やかにし、生活や仕事の場を良くし、働きもはかどり、いい結果を生むのです。お店も繁盛するのです。いい雰囲気に、人は誘われ集まってくるのです。いいお友達もできるのです。暗く陰気だと人は陽気な明るい雰囲気は、脳の働きを良くし、健康にもいいのです。 暗く陰気な心は、体にも、心にも良くないと聖書ははっきり言っているのです。時は、喜べないような時の、あえて、喜ぶと心は変わるのです。

植物は太陽の光を浴び光合成により成長するように、人間も同じです。

 感謝の心は、その心に喜び、顔はほほえみ笑顔になるのです。主イエスさまの福音は喜びの福音なのです。お祈りし、結果を信じ、感謝し、喜びましょう。必ず、良い結果が出るのです。

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。ピリピ4章4節。

 

2018年9月18日 (火)

「尽きない泉」再開25号

聖書 主は、御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現わしてくださるのです。②歴代16章9節。

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 諏訪湖畔レストランにて・・秋山直光先生ご一家がお訪ねくださった時の写真です。何度も書きましたが、あえて書かせていただきます。体温31度で失神し、体力、記憶の多くを失い、ここまで回復しました。神さまのなさることは、正に不思議です。与えられたいのちを主の御用のためさらに用いられたいのです。

 神さまの御心をしっかり受け止めて、神さまの御心のままに生きようとする者に神さまは御心を現わしてくださるのです。神の御力は、どのような条件で表わされるかを教えておられるのです。求める者には、答えてくださるのです。信じる者を受け止め、恵みをもって力を現わしてくださるのです。祈ったら、力を尽したら、あとは、すでに得たものと信じ、感謝の気持ちで、待ち望むのです。必ず、その祈りに答えてくださることを感謝と共に確信し、心を強くして待ち望むのです。

雄々しくあれ、心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。詩篇31篇24節

待ち望む間、たとえ、心をゆさぶられたとしてもである。心を騒がす必要など全くないのです。神の言葉である聖書をそのまま受け取るべきなのです。加えることも、引くことも許されないのです。黙示録22章18節参照。聖書の言葉を、目をそらさず真正面から受け止めつ真摯(しんし)な姿勢を取るべきなのです。神さまもそれに応じ、祝福をもって報いてくださるのです多くく蒔く者は多く刈り取るのです。蒔かぬ種は生えないのです。

「主によって語られたことは必ず実現すると信じ切った人は何と幸いなことでしょう。」ルカ1章45節。

2018年9月15日 (土)

「尽きない泉」再開24号

聖書 あなたは、わずかな事に忠実だったから、私は、あなたにたくさんの事をまかせよう。マタイ25章23節

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 広く遠い先の先まで明るく希望を持つとともに、足元の小さいことも大事にする生活が大事なのです。小さい事が案外、将来大きな事になって多くの実を結ぶという事を忘れてはならないのです。神さまのなさることは、人間の思いを超えたもので、人は、無理、駄目という事が将来、大きな実を結ぶ木になるのです。失望することなどないのです。信じて祈り、祈って信じる祈りを日々忍耐強く継続するのです。神さまは必ずその願いを成就し、備えてくださるのです。

聖書 

先の事どもを思い出すな。昔の事を考えるな。見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を。荒れ地川を設ける。イザヤ43章18-19節。

神さまは、荒野に、砂漠に、川を設け、砂漠に花を咲かせ下さるのです。思いもしなかった、経験したことのない大いなることを行ってくださる偉大なる活きた神さまをもっと期待しなければ、神さまに申し訳ない思いです。平凡な一日、特別な感動もない一日も主イエスに在る時、新しい日として迎えられるのです。

聖書 

だれがその日を小さいこととしてさげすんだのか 旧約聖書ゼカリヤ4章10節。

神は言葉です。神の言葉である聖書を、その通りに神の言葉として受け取り、生きて働いておられる神の言葉、聖書をもっと強く信頼し生きています。生きた神さまが、お一人お一人と共にいて、祝福してくださるように祈っています。アーメン。。

2018年9月14日 (金)

「尽きない泉」再開23号

自分のからだで神の栄光を現わしなさい
コリント①6章20節 新共同訳

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           サフラン

 人生の目的 生きる意味
自分の体、それは、自分の存在という事であり、自分が生きている理由、目的である。人は何のために生きているのか、人生の目的とはないか。人間にとって生涯の課題である。これは、基本は全く同じでも、その人の環境、社会的立場、年令によって、それぞれ、表現は異なるのです。基本から言えば、造り主である神が讃美され、あがめられる栄光の生涯を送ることである。単なる自己満足ではなく、いのちを与えて下さった神さまが崇められるためなのである。単なる自己満足ではなく、使命感を抱いて、生活のすべては神の栄光のためである。人生で、生きている本当の意味を見出した人は幸いなのです。働いて食べて好きなことするという目的は、やがて、飽きるのです。自分は、役に立っていることが分かると、人の気持ちは満たされるのです。

 の仕事は、神から与えられたものとして、(例外もあり、時には転職もあるが、)祈りつつ選択し、基本としては、それが何であったとして感謝して、その専門家になるように精通し認められるように努力すべきです。さらに用いられるようになるのです。クリスチャンとしても、神さまに「忠実な良いしもべだ。よくやった。」と認めていただけるように精進すべきです。要するに、与えられた仕事や環境に感謝し、一生懸命に生きることなのです。お一人お一人の人生のお幸せを心から祈ります。

「尽きない泉」再開22号

聖書 「先の事どもを思い出すな。昔の事を考えるな。見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を。荒れ地に川を設ける。
イザヤ43章18-19節。

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            さるすべり

 

主イエスに在って迎える今日は、昨日の上に、さらに優った良い一段積み重ねたものなのですが、、今日は、昨日より更に良い一日、より良いまさったものなのです。朝を迎えた時、今日も良い一日であるようにと祈って始めたいものです。心を騒がすことなく、きっと必ず良い一日になると確信し、心に、思い描きイメージすることはとても大事なことで。信じるごとくなるのです。

 主イエスに在って生きる者は、目に見える外見は、年と共に衰えますが、内なる心は、日々、新しくされるのです。過去にしばられることなく、つねに、前を向いて、更なる可能性を大きく信じて生きて行くべきです。ヤベツの祈りのように、『私を大いに祝福し、私の地境を拡げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけてくださいますように。』旧約聖書 歴代誌⑴4章9-10節。

神からの強い力を与えられ、神の偉大さを強く信頼し祈るのです。祈りは、必ず答えられるのです。あなたの生活の中に主イエスは働いておられるのです。アーメン。

 偉大な神さまを、私たちの狭い考えで小さい神さまにしてはならないのです。夢見る人ヨセフのように、神さまから大きく広い希望、夢、ビジョンを与えられて生きて行きたいのです。同時に、聖書から力を与えられて、自分の出来る限りのことを実行して生きることを心掛けたのです。神は、信じて行う者を祝福してくださるのです。多くの実を結ぶ人生である事を強く願っています。

2018年9月13日 (木)

「尽きない泉」再開21号

自分のからだで神の栄光を現わしなさい。コリント①6章20節新共同訳

人生の目的・生きる意味について

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         アノダクリスタアーダ  

自分の体、それは、自分の存在という事であり、自分が生きている理由、目的である。人は何のために生きているのか、人生の目的とはないか。人間にとって生涯の課題である。これは、基本は全く同じでも、その人の環境、社会的立場、年令によって、それぞれ、表現は異なるのです。基本から言えば、造り主である神が讃美され、あがめられる栄光の生涯を送ることである。単なる自己満足ではなく、いのちを与えて下さった神さまが崇められるためなのである。単なる自己満足ではなく、使命感を抱いて、生活のすべては神の栄光のためである。人生で、生きている本当の意味を見出した人は幸いなのです。働いて食べて好きなことするという目的は、やがて、飽きるのです。自分は、役に立っていることが分かると、人の気持ちは満たされるのです。

自分の仕事は、神から与えられたものとして、例外もあり、時には転職もあるが、祈りつつ選択し、基本としては、それが何であったとして感謝して、その専門家になるように精通し認められるように努力すべきです。さらに用いられるようになるのです。クリスチャンとしても、神さまに「忠実な良いしもべだ。よくやった。」と認めていただけるように精進すべきです。要するに、与えられた仕事や環境を神さまから与えられていることを感謝し、一生懸命に生きることなのです。
お一人お一人の人生の神さまのお守り、安全とお幸せを心から祈ります。

2018年9月12日 (水)

「尽きない泉」再開21号

ロトがアブラハムと別れて後、主はアブラハムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。創世記13章13~15節

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                コオニユリ

高齢になると、視野がどうしても狭くなる。しかし、心の視野、信仰的視野は広く、遠くある事を神さまは望んでおられるのである。私たちが、思い考える以上に神さまは、偉大なお方なのである。心に思い描くイメージが人生を決めるのです。夢、希望の実現は決して一朝一夕にはいかないが、わたしたちが強く逞しくなるために、神さまが与えなさる試練なので神さまはすべてを益となさるお方なので無駄にはない。限りなく可能性を信じて前向きに生きて行きたい。先々の可能性に終わりはない。この希望は失望に終わることはないのです。

十字架と復活のかぎりなく湧く泉のような愛で、私のこころは元気づけられるのです。

 

一歩一歩足元に注意し、足場を確かめつつ歩きながらも、人生は、その先を展望する視野の広さが、その先を決めるのです。神さまの偉大さを心の支えとして、さらにさらに広く明るい視野を抱いて生きて行きたいのです。神さまは、必ず、その願いと祈りに答えてくださるのです。アーメン。

 ロトがアブラハムと別れて後、主はアブラハムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。創世記13章13~15節

 

高齢になると、視野がどうしても狭くなる。しかし、心の視野、信仰的視野は広く、遠くある事を神さまは望んでおられるのである。私たちが、思い考える以上に神さまは、偉大なお方なのである。心に思い描くイメージが人生を決めるのです。夢、希望の実現は決して一朝一夕にはいかないが、わたしたちが強く逞しくなるために、神さまが与えなさる試練なので神さまはすべてを益となさるお方なので無駄にはない。限りなく可能性を信じて前向きに生きて行きたい。先々の可能性に終わりはない。この希望は失望に終わることはないのです。

十字架と復活のかぎりなく湧く泉のような愛で、私のこころは元気づけられるのです。

 

一歩一歩足元に注意し、足場を確かめつつ歩きながらも、人生は、その先を展望する視野の広さが、その先を決めるのです。神さまの偉大さを心の支えとして、さらにさらに広く明るい視野を抱いて生きて行きたいのです。神さまは、必ず、その願いと祈りに答えてくださるのです。アーメン。

 

2018年9月11日 (火)

「尽きない泉」再開20号

この希望は失望に終わることはない。

ロトがアブラハムと別れて後、主はアブラハムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。創世記13章13~15節

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         百合

高齢になると、視野がどうしても狭くなる。しかし、心の視野、信仰的視野は広く、遠くある事を神さまは望んでおられるのである。私たちが、思い考える以上に神さまは、偉大なお方なのである。心に思い描くイメージが人生を決めるのです。夢、希望の実現は決して一朝一夕にはいかないが、わたしたちが強く逞しくなるために、神さまが与えなさる試練なので神さまはすべてを益となさるお方なので無駄にはない。限りなく可能性を信じて前向きに生きて行きたい。先々の可能性に終わりはない。この希望は失望に終わることはないのです。

十字架と復活のかぎりなく湧く泉のような愛で、私のこころは元気づけられるのです。

 一歩一歩足元に注意し、足場を確かめつつ歩きながらも、人生は、その先を展望する視野の広さが、その先を決めるのです。神さまの偉大さを心の支えとして、さらにさらに広く明るい視野を抱いて生きて行きたいのです。神さまは、必ず、その願いと祈りに答えてくださるのです。アーメン。

2018年9月 9日 (日)

「尽きない泉」再開19号

聖書
キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。私たちは、キリスト・イエスにあっては、割礼を、その受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。ガラテヤ5章1~6節。概略

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          ばら  デライト

聖書のすべての教えは、主イエス・キリストの十字架の愛が伴ってこそ活きたもののなるのです。愛のない行為は、義務感や利害関係によってなされ冷たいものになるのです。

ですから、神は、私たちに対して決して無理強いされないのです。私たちに意志と行動する自由を与え責任を持たせたのです。それは私たち一人一人を尊重してくださる愛のゆえの自由なので、互いを認め許し合い、助けゆるし合いがあってこそ愛による温かいコミュニケーションが生まれるのです。これこそが、主イエスの福音なのです。自分は神の言葉を受け入れ信じ許され、神に義と認められ受け入れていただいているにも関わらず、

神さまが自由を与え尊重されている人を、下に見ては、神の御心に反し、筋が通らないのです。人間のすべての共同体、集合体は、喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさいとの聖書の教える愛のゆるしなしには、暖かく明るいコミュニケーション、交わり、交流による活動は不可能なのです。

神は愛です・・とはっきり書かれているのです。愛に生きてこそ神はともにいてくださるのです。律法により信仰は生きるのではなく、愛により働く信仰によるのです。

これぞ、現実生活を生き抜く福音の奥義なのです。

2018年9月 8日 (土)

「尽きない泉」再開18号

聖書
「また言われた。神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか人は知りません。地は人手によらず実を実らせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」マルコ4章26~28節

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         カンナ

北海道、震災災害に会われている方々のために、神さまが更に必要な物を備えてくださるようにします。
  
    *****     *****

伝道者の書には、神なさることはすべて時にかなって美しい・・とあります。

何事にも時があるのです。人間は例外なしにその営みには、時間がからんでいるのです。時間は過ぎたら、もう戻らないのです。ですから、時は金なり!と世のことわざにもあるのです。何事も、時間の積み重ねです。一歩一歩です。焦っても時が来なければことは進まないことです。どんない偉い人?でも同じです。どんなにせっかちな人でも残念ながら時間には勝てないのです。

 一日、一日を大事に生きて行きましょう。平凡を大事にしましょう。価値がないと思う事の中に掘り出し物が眠っているのです。駄目と思われているような人が役に立つのです。神さまのなさる御業は、人の思いを超えたものなのです。取るに足らない者、無いに等しい者を選び、神さまは栄光を現わしなさるのです。私自身の事と思い信じて生きているのです。聖書は教えは、深くて広い!

「尽きない泉」再開18号

聖書 「また言われた。神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか人は知りません。

地は人手によらず実を実らせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」

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伝道者の書には、神なさることはすべて時にかなって美しい・・とあります。

何事にも時があるのです。人間は例外なしにその営みには、時間がからんでいるのです。時間は過ぎたら、もう戻らないのです。ですから、時は金なり!と世のことわざにもあるのです。何事も、時間の積み重ねです。一歩一歩です。焦っても時が来なければことは進まないことです。どんない偉い人?でも同じです。どんなにせっかちな人でも残念ながら時間には勝てないのです。

 一日、一日を大事に生きて行きましょう。平凡を大事にしましょう。価値がないと思う事の中に掘り出し物が眠っているのです。駄目と思われているような人が役に立つのです。神さまのなさる御業は、人の思いを超えたものなのです。取るに足らない者、無いに等しい者を選び、神さまは栄光を現わしなさるのです。私自身の事と思い信じて生きているのです。聖書は教えは、深くて広い!。

2018年9月 7日 (金)

「尽きない泉」再開17号

その主人は彼に言った。

「よくやった良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな物にも忠実だったからわたしはあなたにたくさんの物を任せよう。」マタイ25章21節

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         羽毛鶏頭です。

神さまは、、脳のためにもプラスになるように、人間を造られたのです。心を開き、聞く耳をもってみ言葉を受け入れましょう。信じてお生きる者の幸せを味わうのです。

どんなに素晴らしい真理や知識を身につけ知っていたとしても、それを現実生活の中で苦労をしながら、面倒がらずに、実行することで、知っていることが活かされるのです。世のことわざにも、「言うは易く、行うは難し」言うには簡単だが、行うのはむずかしいのです。ですから、主イエスの教えのように、人お互い責めないで許し合い時間を掛けて成長を見守りことです。そもそも、成長、解決には、時間が掛かるのです。お祈りしつつイエスの忍耐に学んで粘り強く、七転び、八起き、しくじっても、しくじってもめげず挑戦したいものである。

そのような経験がプラスになってたくましくなり、かしこくもなるのです。人間的には重みを感じる人になるのです。いずれにせよ、何事も、時間を掛けなければ、苦労をしなければ、人として、強くもたくましくもならないのです。与えられた人生の課題を乗り越えた人だけが、いのちの冠を与えられるとヤコブ1章には書いてあります。主イエス様は、『わたし言葉を聞いて行う者は・・』とあります。苦労なしに、結果を出すことは出来ないという事なのです。後の栄光を心に思い描きつつ生きることも楽しいものです。人生には、色々な楽しみがありますが、このような楽しみは、極めて建設的な、多くの実を結び、その実が残る楽しみなのです。私が書くことはしばしば当たり前の事を書いております。ですから特別な事でなく目新しくもないことです。ある人には、目だと思われるかも知れませんが、人生を実践面から見れば、人生は平凡をいかに大事にし、生きる価値あるものとするかで人生が決まるのではないでしょうか

もう少し、言わせてください。

わずかな物をおろそかにせず、いかに活用し生きて行くかで、生涯が決まるのではないでしょうか。聖書は、極めて人生の現実に即した指導の書と言えるのです。わずかな時間、わずかな所有物、わずかな才能、わずかな体力の可能性を終わりまで失望せず、信じて、いかに活用し、向上しようとする前向きな考えで生きるかにより、人生は決まるのではないでしょうか。聖書から教えられます。イエスは、たとえ話から読み取った者は、結果を出すが、そうでないと結果は出ないと警告しているのです。聞く耳のあるものは聞くべしと・・。

2018年9月 5日 (水)

「尽きない泉」再開16号

彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。詩篇84篇

Photo_2          孔雀サボテンです。

 試練は、そこで練り鍛えられるわけですから、意味ある事と理解しつつも、決して楽というわけにはいかないのは、当然なことです。へブル12章にあるように「すべての懲らしめはそのときは喜ばしいものではないが、汗を流し、じっと厳しい訓練を耐え忍んだ後のたくましく鍛えられることをイメージするのです。

 私たちは、心に思い描く明るいイメージ、勝利のイメージ、栄光のイメージ、感謝、喜びのイメージを描きつつ生きて行きたいものです。願い、お祈りした勝利の結末への嘆願は、神に必ず届くのです。それがどんなに困難を極めてものであっても、人生の現実は生易しいものではないのは当然であり、それゆえ、この世に打ち勝った勝利者主イエスを神は遣わして下さったのです。心に思い描くイメージが現実に反映するのです。私たちの神は、私たちの思いをはるかに越えた大いなるお方です。周りから、それは無理と言われつつも、喜びを結果を出している、聖書の中の歴史的記録は、私たちにとり大きな励ましです。

 様々の試練の中にある方がたに思いを寄せ、神さまが力強く働いてくださるように、主の御名により、日々、助けと祝福を祈り続けています。

 私については、体力、記憶の回復を願い、祈り続けていますが、確かに、助けられています。

ブログも再開16号までになりました。お祈り、そして、お励ましを感謝します。続いてよろしくお願いします。9月6日の分です。

「尽きない泉」再開15号

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことはありません。わたしが与える水は、その人のうちにて泉となり、永遠のいのちの水が湧き出ます。」ヨハネ4章14章

Photo          「カラー」です。

 初心に返ると言う言葉があるが、この「尽きない泉」の原点こそ、ブログが続き、メッセージが湧き出るのです。永遠の神が共にあって働いていてくださる以上、泉が当然湧き続けるのです。深い祈り、忍耐強い祈り、深夜の祈り、事ある毎にささげる短い祈り、事を行いながらの短い祈り、祈りは、その時、心に促されるまま御霊の導きの応じて素直にお祈りするのです。この文章を書きながらも、祈りつつ書いています。時には、筆が止まっても、祈り待ち望んでいると神は応えてくださるのです。祈り信じて待ち望むとき湧き口をふさいでいた不信仰のかすは取り除かれ新しいいのちの泉が湧き続けるのです。

外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされるのです。

再開ブログ15号になりましたが、人間的な力みや惰性ではなく、日々新しい上からの力を与えられて、これからもあせることなく続けて行きたく思っています。

このことは、日々の仕事、生活の雑事にも通ることです。祈りは必ず聞かれ実を結ぶのです。
 そのことを信じ、上からの力を信じ、この「尽きない泉」をつづけてまいります。

 祈り心に満たされているときの平安と喜びと感謝は言い難いものがあります。神から与えられる平安、喜びを言葉で言い表そうとするとどうしても言葉の表現には制限があり、深い信頼の下に心で汲み取ると言うことになる。要するに、「信じる」ことなのです。心から信じる時、神さまとの交流が始まるのです。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」「トマスは答えてイエスに言った「私の主、私の神。」イエスは彼に言った。『私の主。私の神。』イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。わたしを信じる者は幸いです。」ヨハネ20章28.29節

2018年9月 3日 (月)

「尽きない泉」再開14号

そのとき、人々は主のみ名によって祈る事を始めた。創世記426節 新改訳  主の名を呼び始めたのは、この時代であった。新共同訳

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 これは、神さまに対して人間が呼び掛けることを許されたという事なのである。神は、人間が神に向かった呼び掛けることをゆるされたという事である。これは、神さまにとっては、人間を教育するため大きな決断であった。人間に物を言う機会を与えて下さったのである。人間が自分の意志で、神にものが言えるようになったのである。アダムの子のカインとアベルは、犬猿の仲であった。というより、カインは、アベルを自分の幸せを奪う許せない存在になり、憎んでついに、人を殺してしまった。自分の考えを邪魔する者を殺す人殺しは、こうして始まった。こうして、神の御心とは程遠い殺人の横行が始まり現代に至ってしまったのである。憎む、裁く、抹殺。本来、互いに神に造られた存在であり、その尊厳さは、誰彼の区別差別なしに、神は人間をえこひいきをしないのに、人間は、他の人を見下げたりし、御心から離れてしまったのです。

 カインとアベルの事件で、その後彼らに増えた家族の間で、神に悩みを訴える祈り、嘆願が始まったと言える。或る意味で、このことを、神は待っておられたのであり、神は天の高いところから広い心で見ておられ、いつの日にか、神は人間と対話をする時が来ることを期待していたのである。人間が自分の弱さをよく自覚し、十字架のゆえにゆるされる主イエスのゆるしと恵みの福音の時代を遠く見通され、その後、長い、長い、神の忍耐強さを示す歴史がずっと今に続き、今私たちは、ゆるしと恵みにより神に自分の思いや願望を強く訴えることをゆるされているのです。

求める願い事は、必ず、聞き届けるので、その実現を堅く信じて祈りなさいと、主イエスは強く言われたのです。

神は、愛のゆえの交流、コミュニケーションを強く望んであられ、そのような私たちへの深く大きい愛を、今、神は御霊により私たちの心に注いでおられ、それを思うとき、私の心は、感謝、感動、喜びを禁じ得ないのです。ロマ5章5節。結果、おだやかさが身を包み、笑顔が生まれるのです。

イエスは、言われました、 「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言い遺し天に昇られました。人も最後に言う言葉は大事な大事な意味深い重要な言葉です。主イエスは、常に共いてよりそい、時に応じて必要な助けを与えて下さるのです。


神は祈りによる呼び掛け、困難の苦しみ、欠乏を助け求める叫び声を待っておられるのです。詩篇には、正直な祈りの言葉に満ちています。

大胆にお祈りをしましょう。神は、必ず助けてくださるのです。

2018年9月 1日 (土)

「尽きない泉」再開13号

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされています。コリントⅡ4章16節。

 主イエス様を知る前までは、すべてのものは古くなるばかりで、いつかはなくなると思い込んでいた。目に見える状況がどうであっても、どこまでも希望を持てるようになったのです。主イエス様を知ってからは、状況がどう変わっても、永遠に変わらない明るい未来を心に思い描きながら日々の生活や仕事と変わらない気持ちで取り組むことができるようになったのです。年は取っても、年に負けずに、年を忘れて、日々生きて行くことができるのです。

日々刻々主イエスさまが私たちといっしょにいてくださるから大丈夫なのです。私たちは、栄光の神さまに選ばれ、栄光の人生を送るためにそれぞれの人生を与えられ、多くの結実を結び神の栄光を現わすための意義ある尊い人生を与えられたのです。最善お人生を必ず備えてくださるのです。私たちは、あせらず、一歩一歩足を踏みしめながら坂道を登って行くのです。主イエス様は、いっしょに重荷を背負ってくださるのです。不十分であっても、なすべきことをしたら、弱いままを受け止めてくださる主イエス様に結果のすべてを必ず成し遂げてくださることを信じ委ねるのです。神は、必ず、最善を行い、喜びと感謝のうちに必ず良い結果を見せてくださるのです。大丈夫!アーメン ハレルヤ。お祈りしています。

12号の補足でした。

「尽きない泉」再開12号

この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。マルコ13章33節。

 

決して・・絶対にという事である。そもそも絶対と言う言葉は、軽々しく人間が言うべきない。それは、絶対永遠無限、終りは、神さま以外にはない。人間は日々老化してゆくのが現実。しかし、神は全く違うのである。永遠に決して変わらず日々新しくなってゆくのであり、目に見える物とは全く異なるのある。

主イエスキリストにあって生きる者は、「外なる人は衰えても、内なる人は日々に新たにされています。」コリントⅡ4章16節。

主イエスキリストの愛の深さ高さ長さ、深さは、かぎりなく無限なのである。この世の中は、はかなく衰え古び、消滅するが、神の存在、愛、希望は無限、永遠、終りがないのである。人間は幾つになってもその先に可能性あるのです。終わりまで進歩、前進の可能性を信じて生きて行くのです。神は、人の思いを越えたことを行いなさる力がある大能のお方なのである。明るい未来を思い描きイメージし、無限の可能性を信じて、自分の出来る限りのベストを尽くし、あとは神の手に委ねるのある。

聖書には、委ねると言う言葉が多く使われていますが、なすべきこと、出来る限りのことはする苦労は、逃げないで祈りつつ挑戦するのであり、そこに、鍛錬され、強くなり賢くなり、祝福される栄光の結果が生まれるのです。心から祝福を祈りつつ。

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